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哀宗 (金)

哀宗(あいそう)は金の第9代皇帝。改名後の諱であえう守緒の“緒”は糸端の意味で“統”と同様で皇室を守るニュアンスがあった。なお、廟号に関しては当初は混乱して義宗(ぎそう)と称された時期もある。現在の廟号に統一されたのは、元代初期であると考えられている。長兄は皇太子の守忠、次兄は濮王(後に荊王)の守純である。
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初め遂王・殿前都点検使に任命される。貞祐4年(1216年)に太子であった長兄の完顔守忠が早世し、代わって皇太子に立てられ枢密使に任じられた。1233年(元光2年)、宣宗の崩御に伴い即位した。この時期は領域北部をモンゴル帝国に奪われて、都もモンゴル軍を避け汴州(開封)に遷されていた。金は同じくモンゴルの圧迫を受けている西夏との同盟によって活路を見出そうとするが、1227年(正大4年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。完顔陳和尚の活躍で一時はモンゴル軍を撃破したが、1231年(正大8年)に金軍の拠点であった河中府(現在の山西省永済市)が陥落、翌年には遂に都城である汴州がモンゴル軍によって包囲されるに至った。金側は何度かモンゴル軍に対し和議を申し出たが、弟のトルイを金との戦闘中に失ったモンゴル帝国の大ハーンオゴデイは哀宗を弟の仇敵として一切の交渉を拒否した。追い詰められた哀宗は翌年に汴州を脱出、帰徳(現在の河南省商丘市)、亳州(現在の安徽省亳州市)、蔡州(現在の河南省汝陽市)へと逃亡するものの、モンゴル軍による追撃は続き、1234年(天興3年)に北のモンゴル軍、南の南宋軍によって蔡州城を完全に包囲された。進退窮まった哀宗は軍の統帥であった皇族の完顏承麟(女真名・呼敦、末帝)に皇位を譲り、城中の幽蘭軒において自ら縊死した。

哀宗の死からわずか半日後、モンゴル・南宋連合軍の攻撃によって蔡州城の金軍は全滅、金はここに滅亡した。

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2009年05月31日 13:43に投稿されたエントリーのページです。

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